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もう一つの大和国分寺|1400年の十字路 大和八木かいわい②

邪馬台国は、畿内説と九州説があるからこそ、ロマンを一層かき立てられます。邪馬台国だけではありません。歴史における通説・異説のバトルは数え切れません。ここ奈良県橿原市の大和八木かいわいにも、知られざる異説があります。天平時代の大和国分寺が橿原にあったというのです。実際、国分寺は今も存在します。

奈良時代に建立された国分寺の教科書的な知識としては、以下のようになります。

聖武天皇が天平13年(741年)に、「国分寺建立の詔(みことのり)」を出し、日本の各国に国分寺と国分尼寺が建てられた。その総本山である総国分寺は奈良市にある東大寺で、総国分尼寺は法華寺である。

一方、橿原市八木町に国分寺が存在し、「当寺を天平時代に設けられた大和国分寺とし、付近に国分尼寺の法華寺があり、互に堂塔伽藍を競っていた」(橿原市史)とする伝承が残っているのです。

大和国分寺は奈良市なのか、橿原市なのか。あるいは二つあったのか

幕府編纂の地誌に「延喜式曰国分寺」

橿原に大和国分寺があったとする説には、少ないながら根拠があります。

そのひとつが、江戸時代に書かれた地誌「大和志」です。江戸幕府が享保年間(1716~1736)に編纂した畿内5か国の地誌「五畿内志(ごきないし)」の一つで、当時は権威をもっていた書物です。

この巻6「大和國之十四 高市郡」の「佛刹」の中に国分寺が登場します。

国分寺在南八木村延喜式曰国分寺料一萬束即此

大和志

「国分寺は南八木村にあって、延喜式に書かれている寺料1万束(稲束)の国分寺とはここのこと」といった意味に読み取れます。延喜式は平安時代中期にまとめられた国の法典です。延喜式に書かれている国分寺なのだから、それは大和国分寺に違いない、という解釈は可能でしょう。

ただ、気になることがあって、この国分寺の説明は、他の寺院と比べると極端に短いのです。有名な大和国分寺として理解していたのなら、書くことはたくさんあるので、もっと記述が長くなりそうなものです。

「大和志」の国分寺に言及した部分
大和志

天平時代の礎石

まだ根拠はあります。

  • 本堂の柱石には、天平時代の円座のある礎石が転用されていた(橿原市史)
  • 国分寺および周辺一帯からは古瓦が出土する(角川日本地名大辞典)

このあたりからは、天平以前の気配が漂います。

奈良時代の遺構は未発見

一方、発掘調査の方は「国分寺橿原説」を補強する結果にはなっていません。

橿原市教育委員会が2015年5月に行った発掘調査報告「大藤原京右京一条五坊、国分寺跡」には、次にことが書かれています。調査面積は20㎡で大規模なものではありません。

  • 藤原京時代に整地された可能性のある土層が見つかった
  • 中世までは耕作地として利用され、近世以降は造成されて宅地になった
  • 奈良時代の国分寺に関連する遺構は存在しなかった

また、この土地の隣接地で2004年に行った調査に関して

  • 藤原京時代ごろの遺構を確認した
  • 近世以降の国分寺の様相を明らかにする成果を得た
  • 奈良時代の国分寺に関わる成果は得られなかった

と説明しています。

現在までの発掘調査を総合すると、平城京の前の都である藤原京時代には、なんらかの建物があったが、奈良時代に別の建物が建てられた痕跡は見当たらず、その後、耕作地になって、江戸時代に造成されて建物が立った――ということになります。

しかし、発掘調査した部分は限られており、これをもって、奈良時代の遺構は存在しないと断定することはできません。

1761年の棟札

橿原の国分寺に関しては、ほかにも気なることがあります。

橿原市史によると、以前の本堂は、江戸時代初期の古材を使っており、宝暦11年(1761年)の棟札がありました。

また、八木町の中世以来の旧家、寺田家所蔵の「寺田一生録」には、天正十一年(1583年)当時の寺田家について、「辰巳(東南)の角に国分寺の道を限る」と記されています。これは、戦国時代には、国分寺があったことを推定させるものです。ところが、化政時代(1804~1830)の書き込みがある「八木里絵図」には、この国分寺は描かれていません。

中世末期から近世にかけても、国分寺の姿は見え隠れするのです。

平城京にいなかった聖武天皇

最後に「国分寺建立の詔」を出した聖武天皇の側から考えてみます。

詔を出した天平13年に、聖武天皇は平城京にいませんでした。天平12年から5年間の謎めいた「遷都の旅」に出ていたのです。京都府の恭仁京、大阪府の難波宮、滋賀県の紫香楽宮と目まぐるしく遷都しました。「国分寺建立の詔」を出したのは恭仁京、大仏も当初、紫香楽宮での造立を計画しました。聖武天皇が平城京に帰ってきたのは天平17年です。

したがって、当初は旧京である平城京に総国分寺を作る気持ちはなかったかもしれません。大仏を紫香楽宮で作ろうとしたように、総国分寺も新京で建立し、大和には普通の国分寺を建てる。それなら、あえて、平城京に国分寺を置かなくてもよく、同じく旧京の藤原京であってもよいでしょう。

想像を膨らませてくれる「国分寺橿原説」です。

中園英明プロフィール

1964年生まれ
行政書士
元新聞社勤務
京都大学文学部卒
介護福祉士実務者研修修了
(旧ホームヘルパー1級)

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