―――続日本後記①
19日は、敬老の日。この日が近づくと、各地の自治体の首長が100歳を超えた人の家を訪問し祝いの品を贈ります。古代にも、折にふれ長寿を祝う振る舞いがなされていました。
平安初期の歴史書「続日本後記」(注1)にこんな話があります。
承和元年10月2日、佐渡に慶雲があらわれたので、喜んだ仁明天皇は大盤振る舞いの詔(みことのり)を出しました。対象者には高齢者も含まれていて、「天下の100歳以上の老人」は穀3斛(こく)、90歳以上は2斛、80歳以上は1斛がもらえました。
当時、100歳の人がどのくらいいたのかは、定かではありませが、「穀三斛」というのはサプライズ・プレゼントです。「斛」は古代の体積の単位で、今の目安としては180リットル。3斛は540リットルですから、たいへんな量になります。
平安時代の食生活といえば、貴族を除けば貧しいものでした。農業技術も進んでいませんし、品種改良もない。米は高級品ですので、庶民は普段、麦、アワ、キビなどの雑穀を食べていて、少ない量で満腹感を得るためにお粥にしていたようです。
そんなところに天皇のプレゼント。「恩賜の穀」ですから、米もたくさん入ってと思われます。ひょっとすると全部、米だったかもしれません。子や孫、ひ孫から「長生きするといいことがあるね。おばあちゃん、ありがとう」と感謝の言葉を聞いたことでしょう。一族で盛大な長寿祝いの席が設けられたに違いありません。
ここに紹介したのは、特別な祝いですが、平安時代にはそれ以外にも、儒教の影響を受けて、40歳(四十賀)、50歳(五十賀)、60歳(六十賀)を長寿の年として祝う風習がありました。現代の感覚では、ずいぶん若い人への長寿祝いですが、当時の平均寿命は30歳程度と推定されているので、けっして若くはないのです。大盤振る舞いの仁明天皇は40歳で亡くなっています。
大昔に100歳以上なんていたはずがない?いえいえ、平清盛のひ孫の藤原貞子は107歳まで生きたと伝えらえています。
(注1)仁明天皇の世(833年から850年)までの天皇の動静を記録した歴史書。計20巻。日本書記から始まる六国史の4番目にあたります。