―――日本霊異記②
「日本霊異記」中巻第16
布施をせず、一方で放生したことで善悪二つの報いがあった話
(あらすじ)
聖武天皇の世、讃岐国香川郡坂田村に裕福な家があり、隣に老婆が2人住んでいました。2人ともやもめで子供がおらず、貧しいため裸同然で暮らしていました。食事の時になると決まって隣に現れ、食べ物をもらっていました。
その家の主婦が「かわいそうなので召使いの中にいれてあげましょう」と主人に進言すると、主人は、「これからは、めいめいが自分の分を取り分けて、おばあさんにあげれば功徳になるでしょう」と話しました。
主婦は自分の分を分けて老婆に与えましたが、家族の中には、老婆を嫌って主人の言葉に従わないばかりか、「おばあさんに食べ物を分けるので、お腹がすいて農作業ができません」と主人に訴える人もいました。
この訴えた人が、ある日、海に行ったところ、カキを10個ほど取った漁師がいたので、米5斗で買い取り、海に放しました。このように善い行いをすることもあったのですが、ある日、まきを取るため山に入って、登っていた松から落ちて死んでしまいました。
しかし、なんと7日後に生き返ったのです。
いったん地獄に落ちたものの、法師5人と優婆塞5人に助けられてこの世に戻ってきたのでした。10人は、彼が放した10個のカキだったのです。冥界には金色の宮殿があって、みんなが楽しそうにごちそうを食べていました。それなのに彼はお腹がすいてのどが渇き、口から焔を吹き出しました。優婆塞は「これは老婆に食べ物を施さず嫌った報いだ」と叱りました。
この話でわかることは、子供がいない年老いたシングルは、富裕な人に生活の糧を求めていたということです。貧しい人に自分の食べるものを分け与えれば功徳になるという仏教的な考え方があり、求めに応じていました。
あらすじでは「家族」としましたが、原文では「家口」となっています。家口とは直系、傍系の親族集団のことで、奴婢(召使い)を含んでいました。この家の主婦は「かわいそうだから召使いにしてあげたい」と思いました。奴婢を家にいれることは、使役することだけが目的ではなく、扶助的な意味をも帯びていたことがうかがえます。高齢で使役できなくなっている人であっても、慈悲の心から家口に入れることがあったのです。
しかし、一方で、こうした高齢の奴婢は疎んじられる存在であったことも確かです。この話では、おばあさんを嫌って食事を分け与えない者がいた。おばあさんからすれば、いつ家から追い出されるともしれず、心細い思いをしていたことでしょう。
裕福な家の隣にいた老婆が「2人」というのは注目に値します。古代では、子供のいない人は、配偶者に先立たれると、寄る辺ない「ぼっち状態」におかれることがありました。こうした人が共同生活して、助け合っていたようです。今でいうシェアハウスのようなものでしょうか。そうした人たちは生きるため、篤志家の近くに居をかまえたのでしょう。
衣類は貴重品でした。貧しい高齢者にはなかなか手が入らない。温暖な讃岐とはいえ、裸同然の生活であれば、掘っ立て柱の吹きさらしの家で冬の寒さに震えていたことでしょう。気まずい思いをしても、家口にくわえてもらえたのはありがたかったに違いありません。
生き物を放して命を救うことを放生(ほうじょう)といいます。仏教の不殺生の教えに則った行為です。日本書記によると、天武天皇5年(676年)に、諸国に詔(みことのり)して始められました。奈良時代、平安時代と、行事としての放生会(ほうじょうえ)が各地の神社や寺院で盛んにおこなわれました。奈良でもっとも有名な池、猿沢池は、興福寺の放生会のためにつくたれた池です。
今は広島や岡山が有名ですが、瀬戸内のカキは美味です。うちに持ち帰って、おばあさん2人に食べさせてあげれば、また違った功徳になったことでしょう。
参考
「日本霊異記」平凡社東洋文庫97(1992年) 原田敏明、高橋貢訳
「校本日本霊異記」日本古典全集刊行会(昭和4年) 国立国会図書館デジタルコレクション