―――日本霊異記①

現代日本の高齢者は古代の高齢者と比べて幸せなのでしょうか。平均寿命は男女とも80歳を超え、モノは豊かになり、医療・福祉など社会制度面でも古代とは比べものにならないほど充実しています。それでも、「今の高齢者の方が幸せだ」とは言い切れない。孤独死3万人なんていう話を聞くと、むしろ、その反対かもしれないと思います。古代の高齢者はどう生きたのか、実像に迫るため、これから資料をみていきましょう。

古代に関する資料は限られています。その中で物語は、当時の高齢者の生活を知るうえで、貴重な文書です。「日本霊異記」という説話集があります。5世紀後半から9世紀前半までの話を集大成したもので、日本最初の説話集です。平安時代の初期に、薬師寺の僧、景戒が編集しました。大半は仏教関係の話で、善行による良い報い、悪行による悪い報いを列挙しています。

「日本霊異記」上巻第23
親に孝養せず悪い死に方をした話

(あらずじ)

7世紀の孝徳天皇の時代に、大和国添上の郡(奈良市の一部など)に、瞻保(せんぽ)という裕福な男がいました。官吏養成機関である大学寮で学んでいて、本ばかり読んでいて、母親に孝行しません。

ある日、母親は瞻保に稲を借りましたが、返すことができませんでした。すると、怒った瞻保は、自分は椅子に座って、地べたにいる母親を責め立てました。居合わせた友人たちは見かねて、母親に代わって借財を返して立ち去ってしまいました。

息子のひどい仕打ちに、母親は「わたしは、おまえを育てるのに休む間もなかった。それなのに、貸した稲を取り立てるというなら、おまえに与えた乳の代を請求しよう。親子の縁も今日限りだ」と乳房をあらわにして涙にくれました。

それを聞いた瞻保は、稲を貸した証文すべてを庭で焼いた後、錯乱状態になりました。髪を振り乱し、傷だらけになりながら、山や自宅の周辺をうろつき回りました。3日後、家に火事が起こり、なにもかも焼けてしまいました。生活に困るようになった瞻保は飢え死にしました。

気の毒なお母さんです。大学寮にいくまで立派に育て上げた息子に邪険にされ、借金取りのように責め立てられる。しかも、地べたに座らせて。ああ、なんのために、休む間もなく働いて子どもに食べさせたのか。「母乳代を返せ」と言いたくなる気持ちもわかります。

日本霊異記①のカット写真

モノが少ないのだから、親子で共有して、助け合いながら生きていたのだろうと思いがちです。しかし、実際には、親子は「別産制」になっていて、親と子で別々に財産を管理していました主食である稲についても別々です。証文を取るというのは、なんとも水臭い。モノがないからこそ、貸し借りには厳格であったのでしょう。

7世紀といえば飛鳥時代、高齢者が国家に扶養を求められるはずもなく、老後を幸せに過ごせるかどうかは、「子どもしだい」という面が強かった。子に寄せる期待は今とは比べものにならないくらい大きかったはずです。

しかし、こういう説話があるということは、親の期待に反する不孝者が少なからずいたということでしょう。一方で、瞻保の友人のように、「親孝行して当然」という意識をもった人たちもいた。親思いの子を育てるということは、とりもなおさず、老後の自身の生活保障になったのです。

瞻保はバチが当たって狂乱し、家を失い、最後は餓死します。そんな恐ろしい目に会うくらいなら親孝行しようと当時の人たちは思った。説話には高齢者虐待やネグレクトを防ぐ機能があったのです。

参考
「日本霊異記」平凡社東洋文庫97(1992年) 原田敏明、高橋貢訳
「校本日本霊異記」日本古典全集刊行会(昭和4年) 国立国会図書館デジタルコレクション

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