私の事務所は、奈良県の中部にある橿原市の北八木町というところにあります。北八木町・八木町・南八木町・小房町あたりは、今井町と並んで伝統的な街並みが残る地域です。最近、今井町はカフェなども増えて有名になりましたが、こちら方は「知る人ぞ知る」観光エリアになっています。
このあたりに古い町並みが残っているのは、いにしえの街道筋にあたるからです。古代から、重要街道の交差点になっていました。今では鉄道の十字路になっていて、事務所最寄りの大和八木駅では、近鉄大阪線と京都線が交わっています。鉄道の路線が古代の街道と重なっているというのは興味深いですね。
八木で交わる街道は、南北が「下ツ道」、東西が「横大路」といいました。
「下ツ道」は、奈良盆地の北側と吉野・熊野をつなぎます。いつごろできたのかは、はっきりしませんが、中国の書物「隋書」の「倭国伝」には、日本国王の言葉として、「今、ことさらに道を清め館を飾り、もって大使を待つ」とありますので、推古朝(593年~628年)の頃には、道の整備が始まっていたのかもしれません。奈良時代(710年~794年)には、「下ツ道」の北の始点は平城京となり、そのメインストリート、朱雀大路の延長線上に「下ツ道」はありました。
「横大路」は、大阪の難波津と橿原・飛鳥方面を結ぶ道でした。日本書紀にそれらしい記述があります。推古天皇21年(613年)11月条に「難波より京(飛鳥地方)に至る大道を置く」と書かれています。その後に作られた古代最大の都、藤原京(694年~710年)では、「横大路」が東西に貫く形になっています。八木地域はこの都の北西隅にあたりますで、そのころには集落ができていたのでしょう。
主要道の交差点付近は、今も昔も、経済や政治、軍事、文化面で重要な地点になります。八木地域には、中世以降、市場もできて商業が発達する一方で戦乱の舞台にもなり、たびたび焼かれました。また、街道沿いは伊勢詣でや初瀬詣で、大峰参詣などで賑わい、旅籠が旅人をもてなしました。松尾芭蕉も1688年にこの地を訪れ、「草臥(くたび)れて宿借る比(ころ)や藤の花」(笈の小文)という句を残しています。
事務所の南東200メートルほどのところに「札の辻」というところがあり、ここが「下ツ道」「横大路」の交差点になっていました。角地にある江戸期建築の旅籠「東の平田家」(市指定文化財)は、今は「八木札ノ辻交流館」になっていて、1階は休憩スペースとして利用できます。散策の際に、かつての賑わいに思い馳せながら休憩するのも一興です。