池井戸潤氏の「かばん屋の相続」のモデルとなった「一澤帆布工業」(京都市)の相続争いは、遺言書に関して大きな教訓を残しました。それは、形式を整えていたとしても自筆証書遺言は危うく、トラブルを避けるには十分な対策をとる必要があるということです。
一澤帆布工業の三代目社長で当時会長職にあった一澤信夫氏は、平成13年3月15日に亡くなりました。相続人である兄弟が争うことになったのは、「二つの自筆証書遺言書」が出てきたためです。
▽遺言書1
平成9年12月12日付け。同社の顧問弁護士が預かっていました。
(形式)
巻紙に毛筆書き。実印
(内容)
信夫氏保有の株式(6万2000株。発行済株式の62%)を
三男(四代目社長)夫妻に67%
四男に33%相続させ、
銀行預金の大半を長男に相続させる
▽遺言書2
平成12年3月9日付け。長男が信夫氏死去から4か月後に提出しました。
(形式)
便箋にボールペン書き。「一澤」ではなく「一沢」の認印。
(内容)
信夫氏保有の株式を
長男に80%
四男に20%相続させる
遺言が二つあった場合、抵触する部分は前の遺言が撤回されたものとみなされます(民法1023条)。なお、印を含め遺言の形式についてはいずれも法的な問題はありませんでした。
三男は、遺言書2の無効確認を求めて提訴しましたが、無効とする十分な証拠がないとして、平成16年12月、最高裁で敗訴が確定しました。
一方、遺言書1で受遺者となっていた三男の妻は、平成18年3月、長男を相手取り遺言書2の無効確認などを求めて新たに提訴しました。京都地裁は請求を棄却しましたが、大阪高裁は、印などに不自然な点があるとして、一審を取り消し、遺言書2は偽物で無効と判断しました。平成21年6月23日、最高裁は二審を支持し長男の上告を棄却しました。
5年の時を隔てて、遺言書2について最高裁で「有効」「無効」の二つの判断が出てしまったわけです。
こうした紛争では、筆跡鑑定が証拠として提出されますが、鑑定者によって結論が異なり、そのどれを採用するかによって裁判結果も変わってきます。この裁判で筆跡鑑定を行ったのは、三男側が大学教授、長男側が科捜研OBでした。結果的には、科捜研OBの鑑定が否定されたことになります。
この裁判から学ぶことは、自筆証書遺言は、▽本人が書いたのか▽本人に意思能力があったのか――など不利な立場に置かれる相続人が疑義を抱く可能性が高いということ。そして真正性を担保するための対策が必要だということです。将来、トラブルが起きそうなら、次のような対策を取りましょう。
- 遺言書を書いているところを録画する
- 実印を押して印鑑登録証明書を添付する
- 筆跡鑑定に備え、本人が書いた日付と氏名のある文書を遺言書と一緒に保管する
公正証書遺言を選択すれば、多くの問題は避けることができます。しかし、公正証書遺言を作成した後の日付の自筆証書遺言が出てきたときは、後者の内容が優先されるため、同様の「争続」が起こる可能性はあります。
関連条文
民法
▽民法968条
自筆証書によって遺言をするには、遺言者が、その全文、日付及び氏名を自書し、これに印を押さなければならない。
▽民法1023条
前の遺言が後の遺言と抵触するときは、その抵触する部分については、後の遺言で前の遺言を撤回したものとみなす。